

昭和4年 卒業生
昭和13年 運動会
校章は松をかたどったものであります。
それは松の節操を愛するからであります。
枯れ易い百花の中にあって、寒暑に堪え終始其の緑を変えない松の校章は本校生徒の胸に輝いております。
創立者 初代校長
村井 敬民
立川女子高等学校、中学校、幼稚園創立者の村井敬民は、四国香川県の人でありますが、父が大阪の後藤松陰、豊後の広瀬淡窓に漢学を、伯耆の羽良斉に医学を学び、医者であり、且漢学を多度津藩士に教え、名字帯刀を許されていました。後、寺子屋を開き郷土の子弟で多少名のある人は皆、父の教えを受けていました。敬民も、その教えを受け幼少より学問を好み、成長のあかつきには、後継者となるべく考えていました。京都の中学に入学し、帝国大学に学びたいと考えていました。然し中学に在学中相次いで両親を失い、大学を断念しました。進路を変え、陸軍士官学校へ入学、騎兵少尉を振出しに(二・二六事件の渡辺錠太郎大将、林総理大臣と同期)軍隊生活30年。大正10年陸軍主計監(少尉)を以て終りました。「軍人は、戦場に死す」の覚悟を常に以って奉公していたが、日清・日露戦争にも出征したが生命を得た事を潔よしとしませんでした。ここで初志に師り、父の遺志を継ぎ教育者となり、教壇に倒れる覚悟をしました。50才にして、青年の意気を持ち、東京帝国大学に聴講生として勉強、傍ら同郷山下代議士創立の神田商工学校学監及講師となり、子弟を教育しました。当時、特に女子教育の必要性をおもい、立派な日本女性を愛と誠を以て育成すべく独力を以て女学校設立を決意、三多摩地方に女学校なきを考え、立川高等女学校を大正14年2月創立宣言書出すことになりました。(45年 学校誌「みさを」より)